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中学2年以降

中学2年のある初夏の蒸し暑い日、中学に入ってから仲良くなった友人のFと、風光明媚な(この頃もまだわかっていない)海岸線にある砂浜の「マリーナ」と言うプールへ泳ぎに行きました。
ここは実家からすぐ近くでしたが、大した設備もなくプールも大きいわけではないのに、当時で入場料が800円もしたので自分の中で勝手に高級な感じがしていて、稀に親に連れて行ってもらうとなんだかリッチな気分で、プールサイドでコーラを飲むのが最高の気分の場所でした。中学2年になり少々懐にも余裕ができたか、友人のFも同じ考えだったのか、その辺は忘れましたし、何を考えてのことだったかは今は定かではありませんが、男二人で悠々と入っていった訳です。
しかしプールサイドに立った途端、そんなリッチな気分も吹き飛びます。プールの中で、当時はまだ珍しかった茶髪にチリチリパーマの数人のグループがはしゃぎまわっていました。
しかも客はそのグループと私たちだけ。「これはやばい」と二人でプールの隅っこのほうで「もったいないけど帰ろうか」と話していた矢先、「お~いお前ら、この辺のモンかぇ~!」「う、うん」
市内に行くとそんなグループが百貨店やゲームセンターにたむろしていて、近くを通るとカネをせびられる、いわゆる恐喝がはやっていた時代だったので、そそくさと服を置いていたベンチに戻り、さっさと帰ろうとすると「まぁ待てぇよ~」。
結局のところ恐喝までは行かなかったのですが、初めて「ワルに絡まれた」ことになり、翌日学校に行くと誰が見ていたのか、なぜか校内では既にうわさになっていたようで「お前ら絡まれたんやてな~」と校内のワル共が寄って来ます。ワルと言ってももともと近所で遊んでいた人たちなのですが、小学校の頃から「末は博士か大臣か」と親や周りに期待されてきたので、中学入学と同時にきっぱり彼らとは別れ、勉学の道を歩んでいた矢先のことでしたので、私としては大ショックでした。

 しかし居心地のよさからか、帰る方向が一緒の彼らと帰り道を共にするようになり始めます。小学校時代の彼らとは違って既にワルぶりが進化しており、タバコなんて当然のこと、親のいない上級生の家でたむろして学校はサボるわ、一緒に学校から帰るうちそんな居心地のいい環境に嵌って行きます。
少しずつ体も大きくなって、同級生下級生、他校のグループからケンカを挑まれることが多くなります。少しですが、柔道をやっていたことがここで幸いし、「武道は武器になるからケンカはやらん」。良い言い訳ができたわけです。
ただ近隣の2校から大勢で攻めてこられたときはちょっと焦りました。学校の前にある橋の上に数十人、ウチの学校の仲間もいます。「お前が抑え(学校を占めている人間のこと)か!」「わえ(私)ちゃうわ!」「そこで捕まえたあいつらがそう言うてるで!」。おいおい待ってくれよ状態です。先生連中はどうして帰ったか、校内には誰もいない雰囲気で、唯一残っていたと思われる体育の先生が近くに寄ってきたかと思ったら「ええ加減にしとけよ」という捨て台詞を残してそそくさと帰っていきます。
こうなればもう開き直るしかなく、「わえがそうやけど、それがどうかしたんか!」「こいつがお前とケンカしたいらしいんや」。前々から苦手意識があったひとつ年下のでかい男が前に出てきました。
あれ?その後どうなったか、なぜか覚えていません。たぶん自分の不利な状態になったので覚えてないんでしょうか。覚えてるのは「捕まっていた」はずの同級生たちにそのあと「お前らどうよ~!頼むでホンマ!!!」と言ったところ「え?遊んでただけやで」と話したことぐらいです。

 そんなことをしながらも「犯罪行為」には手を染めなかったので、警察の厄介になって補導されるわけでもなく、無事中学の卒業式を迎えます。
卒業式が終わり運動場で集合していると、なぜか担任の先生が近づいてきて「お前の入学時のIQは185で和歌山市内で3番目やねんで。もったいないなぁ~もうあかんわ」。当時はIQの意味も判りませんでしたので、「なにゆうてんの先生?」と言いましたが、あとで気がついたときには時既に遅く、博士の道も、大臣の道もあきらめてしまっていたので、そんなことはどうでもいいことでした。
その後、教室に帰る途中の廊下で、複数の女の子から好きな気持ちが通じると言う迷信のあった「第二ボタン」をねだられ、結局制服のボタンがひとつしかなくなってしまった記憶があります。そう言えば当時流行していたアイススケートのリンクで、4ヵ所の出入り口全てに別の女の子を待たせている、なんてこともありました。30年以上も前の話なので、今は見る影もありませんが。

さてここから、硬派を貫くべく「男気」を求めてほとんどの生徒が男の工業高校に入学します。

続きはまた今度。

幼少の頃のこと

私は、万葉集で柿本人麻呂に詠まれたほど風光明媚な土地、和歌の浦で生まれました。風光明媚といっても、実際住んでいる者にはそんなに感動も無く、大きくなってからいろんなことがわかって「凄いトコにすんでるんやな」と思った次第です。

私の記憶にはありませんが生まれる前日、第2室戸台風が紀伊半島に上陸、昔のことあまり整備が整っていなかった海岸の堤防を大波が越え、海のすぐ近くにある実家は床下浸水になったらしいです。大きいおなかを抱えたおかんは、道路を怒涛のごとく流れる海水を乗り越えて産院まで行き、午前6時に私を無事に出産したと言うことでした。

おとんは割と厳格なほうで、それが後々幸いすることになります。意識し始めたのは小学校低学年でしたが、私は左利きです。それをおとんが嫌がって、鉛筆と箸は無理やり右手で持たされる訓練をされたようで、現在も箸とペンは右のほうが使いやすいです。しかし幼稚園までは目が届かなかったようで、園内はいつもハサミで紙を切るとき、どうしても私だけギザギザにしか切れませんでした。当時はなぜだか全くわかりませんでしたが、なんとなく「まあええか」と思っていました。

小学校に入っても、運動や紙きりは下手くそだったのですが本を読むことが大好きで、入学式のとき買ってもらった「小学館大百科事典全12巻」を1年生で読破、2年で「エンサイクロペディア百科事典全24巻」を読破します。まあ小学校低学年のことですから、読めない漢字は飛ばすんですが、全て読んで行くとその漢字の意味が理解できてきます。
しかし当時は表で走り回ることが当たり前の遊びだったので、周りの同じ年くらいの人たちは、みんな野球に熱中し始めました。実はここにもおとんが介入してきて、グローブは右手用しか買ってもらえず、バッターボックスも右用(左側)にしか入らせてもらえませんでした。当然のことですが、めちゃくちゃ下手くそで、そのうちおとんが見に来なくなると、左手のグローブで取ったボールを一旦右手に持ち替え、グローブを右脇に挟んで左手で投げるのが定番となりましたが、もともと運動能力は高いほうじゃないので、もたもたした上に持ち替えていたら時間がかかってしまいます。おかげでレギュラーには一度もなることなく、小学校の6年間を終わりました。

中学に入ると、左利きでもできて球技ではないスポーツを、と言うことで、当時50数キロの軽量級で柔道部に入部しました。しかしここでも諸先輩方と同い年のバリバリの柔道家が「お前は経験が少ないのだから右でやりなさい」と言うことになり、やはりどうしてもへなちょこ柔道にしかなりませんでした。まあ基礎体力を鍛えるでもなく、何もしなかったのが最大の原因ですけどね。
でも少々格闘技(当時はこんな熟語はありませんでしたが)をかじったのと、またある程度ですがクラブで鍛えたこともあってケンカには自信がつき、これが中学2年生ごろからの、人生の転落への始まりだったのです。


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